TAMAのさん日記

日々雑感、トレーニング理論などを書きます

思いやりと思い込みについて

随分と昔の話ですが

📺ある俳優(A)がテレビ番組で
「新幹線の車内で喰わえ煙草をふかした2人の若者(B・C)からサインを求められた時」
の事について話していらっしゃいました


(🚅確か岡山駅だったと思いますが)
いかにも「田舎の若者」風な派手な服装のB・Cが
🚬煙草を吸いながらAが乗車する車両に入って来ました

Aは出来るだけ彼らと関わりたくないと考え
伏し目がちに窓を眺めていたのですが

BがAの事に気づき
『お、アンタ、俳優のAでしょ?」
『サインくれないか!』
と言い寄って来ました

他の乗客からの強い視線を感じつつ
その場で悩んだAは
「🚭サインは書くが、その前にタバコの火を消したまえ❗️」
「周りの乗客に思いやりを持て」
と言い放ちました


Aは(2人の若者が激昂して、殴りかかって来るかも知れない)と覚悟していましたが
彼らの対応は意外なものでした

😳若者らはキョトンとした様子で
Aの要請を聞き取り
慌ててその場でタバコの火を消しました

その後で
『…ええと…これ(吸い殻)はどうすれば良いですか?』
と、たどたどしい標準語で話しかけて来たので

「👖そんなものはポケットにでもしまえばいいだろ❗️」
と、返答すると
彼らはまた素直に従い、吸い殻をポケットにしまい込みました

その後Aはサインを書き
若者はAに御礼を言って去って行きました


その後Aは車内でこの出来事について考え込み
ある仮説を立てました



「元々、都会の電車にもついこの間まで当たり前のように灰皿は常備していた」
「(当時の)田舎の電車には灰皿がついている」
「彼らはマナー違反をしていた訳ではなく、新幹線が禁煙である事を知らなかっただけではなかったのだろうか?」

Aはこれに気づいた時点で
2人の若者に叱責した事を後悔しましたが、既に彼らはいません

そこでAは番組内で謝罪しました
「もし、この番組をあの時のお2人が見ていたら、どうか私の浅慮を許して欲しい」
「『思いやりを持て』と言い放った私の考えは、私の勝手な『思い込み』でした」




この喫煙問題と思いやり(マナー・配慮)についての議論は
本当に深いところがあると常々思います

昨今よく見かけるのは

喫煙者に対して「非喫煙への配慮が足りない(から、喫煙を止めろ)」と指摘されるシーンです

指摘者は
喫煙者が好んでいる喫煙行為を奪っている訳ですから
『配慮がない』と指摘した指摘者にも配慮がない事になります

これとは別に
喫煙の健康被害については大いに議論されるべき問題だと思います
私が支持する医学博士の養老孟司氏の記事を添付しますので

(今回の意見提起とは別件ではありますものの)
本件についてもご批判などあれば是非お伺いしたいです




随分と前置きが長くなってしまいましたが

今回私は喫煙推進運動をしたい訳ではありません
(私自身も無人の喫煙所に行っただけで吐き気がするくらいの嫌煙家ですし)

以下に
今回皆様からご意見を賜わりたい争点を列記させて頂きますので
ご一読頂けたら幸甚に存じます


①思いやりと思い込みについての皆様の考え方について
私は
「相手の嫌がることはしてはいけない」という
現代日本ではもはや伝統文化として根付く発想・教育思想は
極めて危険な考え方であると強く警戒しています

先に添付した養老氏の記事でも
ナチスドイツの虐殺行為について一部触れられていますが

ドイツでは
「相手の嫌がることをしてはいけない」といった発想を
“先廻り服従 vorauseilender Gehorsam ”と呼び
ナチス暴挙の元凶のひとつであると考えられています

従って
ドイツをはじめ欧州諸国では
「相手の嫌がることはしてはならない」ではなく

・「自分がされて嫌なことは、はっきり相手に伝えなさい」
・「不快表明をはっきり示さずに陰で同調者を募る行為は、勇気のある人物がする行為ではない(コシヌケのやる事)」
と考えられており

私はこの【先廻り服従】を戦後75年経った現在でも
珍重し続ける現代日本の教育観念こそが
教育現場で相次ぐ
イジメや暴力事件発生の元凶であると考えています

尚、私が関係するバスケットチームでは
上記の欧州諸国に倣った哲学感を徹底して指導しています

(匿名アカウントからの発信ですので全くコミットメントは取れませんが)
私が関係したチーム内では
意見の喰い違いによる子供同士、あるいは保護者同士の衝突は度々起こりますが
イジメは全く発生しません


②いわゆる『考える力』ではなく、『考えるストレス』について

「①」のような教育観念の本質に触れた議論を提案すると
・「私はこのような部分を考えたくない」
・「このような議論を提示する君はどうかしている、失礼だ」
といったお叱りを
決して少なくない指導者様から度々受けます

正に「①」で触れた通り
不快な概念を不快と表明される事は大いに結構だと思いますので
不快さを訴える指導者様方の根拠を注意深く伺うに

・まず失礼という根拠につきましては
「これまでこういった切り口で話し合いをした慣例がない」
という慣例を正義となされる部分がご主張の本質ではないかと解析させて頂いております

・次いで考える力の弱さ(いわゆる思考停止状態)というよりも
考える事自体に対して
極端な嫌悪感・ストレスを感じる方が非常に多い

このふたつが問題の鍵ではないかと
今のところ結論付けています


以上2点について
皆様からの奇譚のないご批判をなどを賜れれば
幸いでございます