私が体罰指導より恐れているもの
🏀バスケットボールは何故感動するのか?
こういった問いがもしバスケットボール団体から発信されたプロモーションならば、未だ苦笑いをする余地もあるが
こういった問いをテーマとして行われる道徳授業を(恐ろしいことに)日本の教育現場では実によく見聞きする
一体何が問題なのか?
上記の問いの「バスケットボール」の部分を「ももいろクローバーZ」に置き換えてみれば理解が易いのではないだろうか?
バスケットボールは何故感動するのか?
ももいろクローバーZは何故感動するのか?
バスケットだろうがももクロだろうが
好きな奴はいるだろうが、全然興味がない奴もいる
上記の問いはそんな人々の心情が全く汲み取られず
「バスケットボールは感動するものだ」という概念の強要と成り下がっている
恐らくこんな授業内容を
放置どころか推奨する国はG8加盟国中では日本くらいで
諸外国でこんな授業をしたら
「…え?どういう意味??」
「感動をする前提で授業を進めるの?」
非難すら受けずに困惑されてしまうだろう
🏀
僕は常々、体罰指導なぞ大した問題ではなく※
(※傷害罪レベルの体罰ならば、それを刑事告訴すれば良いだけの話だろ?)
そんなものよりも
生徒・選手の思考の自由を暗に拘束する
不勉強な指導者による道徳教育の方が遥かに危険性が高いと警戒している
こんなもん学校の授業で続けられたら
子供がストレスで異常行動を起こす事も
それを制す為に指導者が手を上げざるを得ない状況が頻発する事も
当たり前の話だ
🏀
絶対に道徳授業をするな!とまでは言わない
しかし、道徳授業などというウルトラ難解なコンテンツを
大学出たての教師や、またろくに勉強もせずに歳だけ重ねた指導者らに担える訳がない
例えば今回の事例ならば
テーマが
バスケットボールは何故感動するのか?
ももいろクローバーZは何故感動するのか?
…だから、おかしな授業となってしまう
これを
「人は何故、感動するのか?/どんな時に感動をするのか?」
に切り替えれば、きちんとした授業となるだろう
…すると
『😫そんな複雑なテーマでは、小中学生には理解できません』という批判が湧くだろう
だが、そうではない
例えば僕ならばこのテーマで子供相手にきちんとした授業ができる
準備が恐ろしく大変だからわざわざとやらないだけだ
理解力がないのは生徒ではないのだ